ダウト / MUSIC NIPPON

MUSIC NIPPON

ちょっと積みCDしていて聴くのが遅れてしまったのですが。マジ後悔してますよ、超カッコイイじゃないですか。俺は過去作の中で断トツ好き。最近メロディの起伏に乏しい音楽ばっかり聞いていたせいで、こういう歌謡曲風メロディのバンドがピッタリハマった形なんですけど(R指定とか)。そもそも最近のシングルはバラエティに富んでいて面白かったのですよね。

表題曲は最新系でありながら、ダウトらしさを全開に見せつける鉄板ナンバー。に続き、シングルの全身全霊livesはストレートなロックナンバー。音楽性はV系の中ではポップな方だと思うんですけど、演奏上手いですよねダウト。お次の最後の晩餐は、V系では珍しいブラスアレンジが入ってくる。
こうなってくると、全曲に一言書かなきゃいけなそうでめんどくさいんですけど、次の曲マジビビった。ブラスアレンジで繋げたこの曲は、同じブラスでも16ビートなのでまた意味が変わって、ワカチコギターなんて入ってきて、V系でファンクをやるのってなかなか難しいんですけど、ダウト色になってますね。というかV系ファンクだけでもアイデアが渋滞起こすのに、サビがソーラン節なんすよ。なんなんすかね頭がおかしいんですかね。サビ後の展開も、渋谷系というには絶妙にダサいんですけど、爽やかでこういう展開もできるんですねー。
この後も、素晴らしい世界とか、サイケデリコ∞サイケデリコとか、いい曲(なんだけど少し変な曲)満載でおいしくて。かと思えば、思ひ出港町とか演歌でチョッパーみたいな、よっく分かんないけど、面白い曲も随所に入り込んできて、マジヤバイっす。多分ですけどボトム(リズム隊の引き出しが多いこと多いこと)がしっかりしてるから、遊び心が活きてるのかな、なんて思いました。ベースとドラム聞いてるだけで、ホント面白い。メロディ・アレンジ・アイデア、かなりの良盤っすよ

V.A / CRUSH! -90's V-Rock best hit cover songs-

CRUSH!
CRUSH! -90's V-Rock best hit cover songs-の感想書くよ。俺はこういうDJネタになりそうな音源大好きだし、もっと出来るだろうけど概ね選曲選盤文句なし。説明可能な選択だと思う。

heidi. - ピンクスパイダー

過去のheidi.らしさからメジャーでの像を結ぼうと、過去の自分と戦ってる最中というのがもろに出た感じ。聞き返すと他のバンドに比べていじってる方だったけど、物凄く微妙な箇所でheidi.らしさが出てる。heidi.風アレンジは随所にあるけど、音自体はシンプルだから個性を出そうとしたらこうなったみたいな

ドレミ團 - 街

ドレミ團は聞いたこと無くて、それこそ昔のheidi.的なバンドだと名前から勝手に想像してたんだけども。モノマネ芸人的に似てる。うんただ似てる。あーメイン作曲者が抜けては変わり続けてるバンドなんだ。SOPHIAより原曲の持ってるベクトルに多少寄せた感じかしら

BugLug - Melty Love

声色とかワウ気味のギターとか、基本は一緒だけど微妙な小ネタを散りばめる感じのカバー。CはBugLugの良さが分かりやすく出てると思うからこのCを拡張して、構成バラして増やしたり転調したりとか聞いてみたかった。この曲ならSuGとかゾロとか可愛く出来そう。改めてBugLugの特徴はハイブリッド系でもバンドサウンドを別ジャンルにもってくんじゃなくて、別ジャンルの音をバンドサウンドに落としこむってタイプのバンドなんだな

NoGoD - 1/3の純情な感情

団長が意外なキーから入ったので笑ってしまった。DELUHI休みだしバカテクで選ばれたんだから間奏伸ばして、ベースソロとかドラムが暴れたりやりまくればよかったのに、細部とギターソロくらい?事実NoGoDはメロディを殺さずにさりげ無くテクニックを使う術をSIAMSHADEから学べばもっと聞きやすくなるぽい

D - 月下の夜想曲

これはまごう事無きDのカバーだ。白亜の宮殿に入ったら吸血鬼が住んでた的なアレだ。当時メロディが面白くてアレンジが凝ってるかも知んないけど音が軽くてシンセが嫌いな俺にはハマんなかったけど、あの時俺が聞きたかったマリスがこれなのかもしんない

少女-ロリヰタ-23区 - STORM

建て直したてのバンドが、誰もが扱うには持て余すLUNASEAの曲を微妙に再アレンジしただけでも頑張った。少女-ロリヰタ-23区の持ち味でもある多ジャンルハイブリッド感に乏しいのが寂しいが、勝手にラップとかキラキラシンセとか入れたら叩かれそうだし

摩天楼オペラ - 紅

Versailles以外ならメロスピで2バスなら摩オペだろうが何だろうが誰でもよかったけど、Keyいるし、まあ摩オペだよな。やって欲しいことをキッチリとやる感じで。Guソロで代わりのKeyソロとのアルペジオ風ユニゾンがほぼ無意味で笑った。はっそうかKAMIJOじゃ原キーで紅歌えるか微妙かもっ

DaizyStripper - With-you

普通に考えたらラクリマのカバーなんて嫌なハードルの高さだけど下くぐって来たか。ハイトーン以外没個性のデイジーがやるには逆に一点突破かも。メロディを丁寧に拾ってる以外はコピーしやすいアレンジに変えたみたいな。(多分)下手ギターがHIRO風アレンジを頑張ってる

12012 - Winter, again

ロックンロールヴィジュとして12012なんだろうけど、studsとかdeadman系がやると面白い筈なんだよね本来、無難に行けばガゼとか。元々音はシンプルなバンドだから、こうなるのは分かってるんだけど、どっかポイントで暴れて欲しいなあ正直

アンド - ロマンス

最近はこういうバンドであんま良いのいないから、LycaonとかSCREWじゃなくて急上昇中のアンドが抜擢されるのは分かる。けどDISCOビートが念頭にあったからなんかな。なんかアレンジがぐちゃぐちゃなような。メリハリがもうちょっとあったら、転調でおおってなった臭いんだけど。PIERROT的な…boogieman辺りでも面白かったかも

Mix Speaker's,Inc. - S.O.Sロマンティック

これもちゃんと聞いたこと無いけど、Mix Speaker's,Inc.てこういうバンドなんだろうなて感じで。二人でフリを合わせて手をこう振ってるのが目に浮かぶ。ツインボーカルを生かしたかっていうとアレで、メルヘンな音階にアレンジし直したりするのはいいんだけど、何でこんなに楽器がロックぽい音色なのか謎

LOST ASH - ENDLESS LOVE

そもそもD+SHADEがデラのコピバンみたいなもんなんだけど、これは何とも言い難い最大公約数的なアレンジで。全然悪くないんだけど言う事もない。D'espairsRayなんかがやったらもっと変なアレンジにしたかな

MERRY - Schweinの椅子

カバー常連のMERRYも今までの出張メリーて感じがなく、曲と齟齬が無くて珍しく浮いてない。そもそも原曲がアイデア一発みたいな曲で遊びようも無いけど、いつもの和音階裏打ちあと2バスとかやってみるもこの曲じゃこんなもんだよな

DuelJewel - JUPITER

これもなー、コード進行がこれ以上無いってくらいシンプルだから、アレンジしようにも困っただろうなあ。思い切って8ビートにしてコードも変えて…みたいのはやったんだろうけど、結局ここに落ち着いたんだろうな

DOGinTheパラレルワールドオーケストラ - 夢より素敵な

これは原曲知らんからなんとも。ただPWOぽくはないから原曲に忠実なカバーなのかな。いつもよりアイデア少なめで声も音も寄り道せずにゴールに着いちゃった寂しさはある。変な音で一杯みたいなのでいいのに。LM.Cとかがやったら面白かったかも

知らないのもあったけど、総じて原曲リスペクトなカバー。こないだ聞いたabingdonの少年カバーみたいな、始まってもしばらく黒夢の少年て分からないみたいのは無かった。通して聞いた後にもう一度聞いた時の方が細部に耳が行ったから面白かったかも。なんつーか原曲強すぎていじる余地が無さ過ぎる。こういう企画は旨味は少ないだろうに、俺はこういうオムニバス好きだから嬉しいけど。過去盤のファンより、逆に原曲知らないファンが押し盤目当てで買って、原曲バンドの曲を初めて耳にしたりするんだとしたら企画としては成功だと思う。だから若い子に普段の○○とちがーうなんて面白がって聞いてほしいなあ

サマーウォーズ / 114分


サマーウォーズ
■小磯健二の話。主人公のケンジは、外部の視点で些か過剰で普通じゃない陣内家において、冷静ではなくとも、普通のアングルを齎しています。これは、終始ケンジ視点で描かれることから、とある田舎の物語に"巻き込まれる"形のアドベンチャーという骨格になります。正直ケンジが普通か?と言われれば普通どころか、平均的な高校生にしてはかなり数学が得意であるといえます。が、ここでいう普通は「視聴者の目線であること」であって「一般的といえる数学の能力を持っている」ということではありません。あなたよりも数学が出来るということと、ケンジの視点を介して旧家のお屋敷を覗き見るという(その為かケンジのアングルに入らないものは徹底的に描かれません。ただ一つラストの花札バトルを除いて)、憑代としての役割であることは矛盾しません(例えば映画マルコビッチの穴のイメージです)。


人には好きな事や得意なことがあるかと思いますが、その程度のものであって、決して「数学日本チャンピオン」という肩書きは持てないし、世界的事件に発展してしまう暗号の解読にも失敗してしまう程度に普通です。決して世界でただ一人の暗号の解読者ではないのです。そのミスリードは、前半から中盤にかけて、物語の歯車になります。
特に栄ばーさんが死んで以降は、しばらくケンジの居場所がありません。多くの視聴者と同じく他者だからです。陣内家の一同は他人に構っていられない状況に、まとまりをなくしてしまいますが。ケンジは他人だからこそ、栄ばーさんの死の意味を陣内家とは別の次元で受け取ることになります。それは第二、第三の犠牲者が出てしまうかもしれないという危機感に他なりません。ケンジが、ラブマシーンにアバターを奪われた(選ばれた)のは、それによって人一倍危機感を感じているという部分を補強するかのように作用します(これとは別の次元で、陣内家にいる他者という属性を、侘助の分身であるラブマシーンが好んで奪ったという意味もあり、詳しくは侘助の章を参照してください)。
昨日(だったっけ?)初めて話した栄ばーさんの気持ちを、他人として(栄ばーさんの憑代として)陣内家の空気を読まずに汲み取るケンジは、家のことに執着し、世界のごたごたから目を背けようとする陣内家の女性に、万助とは別の意味で、まるで栄ばーさんが、まず外部へ視線を向けたように、外部への視点の重要性を主張します。少し前まで、他人の家の物語に巻き込まれたケンジ君は、ここでとある田舎の物語が、ネットによってつながっているセカイの物語として、当事者性を帯びていることを、観客と同時に受け入れ、物語りは急速にひとつの方向に向かってスピードを上げていきます。


物語は、そんなにとんとん拍子には行きませんが、まずは、去勢された男性性である陣内家のオトコノコ達を鼓舞し、その後、栄ばーさんという陣内家にとっての当事者性を持つ人間の遺言によって、女家族も再起動を始めます。もちろんこの後、ケンジはその数学の才能を発揮しますが、それは陣内家の面々がもつ役割と同列とみています。こういった進行と同時に、誰が誰だか分からなかった陣内家の面々も、ケンジと同様、各々の当事者性を帯びるにつけ、区別が付くようになる演出が見事です。


■陣内侘助の話。侘助は、加持さんばりのシニシズムが売りのようですのでw豊かに感情を露にはしませんが、その代わりに雄弁に語ってくれるのが人口A.Iであるラブマシーンです。論理的な説明はともかく、物語的な説明は侘助の本心の演出でしょう。例えばケンジの章でも補足として書いていますが、何故ケンジのアバターがラブマシーンに選ばれたかと言うと、ケンジが陣内家にとっての憑代だからで。陣内家に受け入れられたい侘助が陣内家に入りたい時に、陣内家内の他者であるケンジが御誂え向きだったためでしょう。なぜなら侘助は陣内家、ひいては栄ばーさんへの執着が人一倍強く、唯一迎えてくれる犬にフォーカスがあう演出や、衛星が陣内家に落ちる演出は家に帰りたいという願望のメタファーだと思えます。最後、たった数十人のアバターを相手に花札勝負に乗ってしまうのも、論理的な説明もされますが、それよりも自分が考えるのは、花札が栄ばーさんを連想させるということであったり、陣内家の面々と花札で遊ぶこと=陣内家の承認であるからではないでしょうか。


侘助は世界を混乱させ、陣内家をこれまで以上に混乱させながらも、栄ばーさんの強烈な母性で受け入れられ(腹を切れというのも、家族としての承認の証明でしょう。これについては栄ばーさんの章で後述します)、明確な悪役として描かれることは終ぞありませんでした(悪役がいるとすれば、それはアメリカであって、まるでアメリカがOZを支配しようとしているだとか、ちょっとそれ自体は、なんかジョンとヨーコとか言って、滑ってた気がしますが)。
家族になるんだったら、なんでもかんでも飲み込める強烈な母性がサマーウォーズには描かれているように思います。包括的母性ばかりで厳しい父性が描かれていないと、わがままなオトナコドモばかりが、女性に隠れて(隠れてるのは相談の段階)噴きあがるのも頷けますね。


■陣内栄の話。結構言われていますが、栄ばーさんのスペシャリティは、各々の特性が明確に打ち出されるサマーウォーズの中でも圧倒的です。正直リアリティとはかけ離れたキャラクターでしょう。しかし何故自分は、栄ばーさんに懐かしさを覚えるのでしょうか。何故ならば、知っているのです。現実にはいないが憧れとして表現されてきた美しい日本人としての栄ばーさんを。今、自分の個人的な興味で、地方自治体と任侠というセーフティネットについて考えていたせいもあってw(そもそも任侠とはファンタジー)栄ばーさんのシークエンスは、任侠的な凛とした美しさを、声や(沈黙や)動き(アップ)、また写真や筆書きの手紙のようなガジェットによって美しく描かれていて、とても痺れます。今も昔も、そんなカッコいい人間はスクリーンの中でしか見たことがありませんが、ファンタジーだからこそ、こうありたいと偶像化していたことは確かで。こんなばーさんがいたらなぁ、と思わせることに成功しているのではないでしょうか。


引力に引っ張られ、周りを回る衛星のように、普段核家族として実家を離れている人々も、アメリカへ逃げている侘助が家族に反発されながらも、栄ばーさんに承認されることで、飛び級的に陣内家にログインしようと考えたのも、栄ばーさんの強烈過ぎる個性と、強大な母性といった重力に引っ張られてしまう為で、そうなってしまうのも頷けてしまう凛々しさが表現されていると感じました。つまりそれを失うということは、近い将来バラバラになるということで、陣内家の面々は不安定な環境を余儀なくされます(覚えてないけどカメラも揺れてたのかな?)。「俺は悪くないよな、ばーさんは分かってくれるよな」といった侘助に対し、陣内家の誰が腹を切れと言えたでしょう(しかしこの薙刀シークエンスで、拒絶されても大人になれなかった侘助を見ていると、おじーさん-父性-の不在が、より一層際立ちます。いくら強くても、やはり母性と父性は、物語上の性質として変わりにはなれないということを痛感しますね)。それは家族であっても無理だったでしょう。それは他の誰でもない栄ばーさんだけが侘助を承認していたからです(山を売って渡米資金を渡したのも栄ばーさん)。しかも栄ばーさんからしたら、旦那の浮気相手の息子で、血は繋がっていません。それは逆説的に、身内の恥を身内で引き受ける当事者性を持っていたのは、栄ばーさんしかいなかったことの証明になります。


そうした過去を象徴するようでいて、普遍的な力を象徴してしまう強靭さが前半部の安定感と、失ったときの不安定感を際立たせ、物語を盛り上げてくれます。そうした栄ばーさんの意思を誰よりも体現し、憑代(ハブ)として家族に伝染させたのが、他ならぬケンジであることは(その理由は)、上記した通りです。この事から、田舎的なベタベタなコミュニケーションを是とした話ではないことは、明らかです。何故なら、近親者であればあるほど必ずしも心を通わせている訳ではないという演出だからです。近すぎても分からない。血が繋がっていても分かり合えないことがあるということですね。これほどの圧倒的な人間力を夏希はこの映画を通して受け入れた訳ですから、並々ならぬ覚悟ではないわけで、ケンジがいなかったら、この覚悟はできなかったかもしれません。


話は少し変わるのですが、栄ばーさんの遺言で、みんなでご飯を食べなさいという場面がありますが、所々にヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を思わせるモチーフが現出するのはとても面白いですね。エヴァでも食事は、戦の前に心の離れていた人間を一つにまとめ、みんなで揃って食べ(ようとす)るって使い方でしたよね。


■今まで当事者性と何度か書きましたが、この映画の肝はこの当事者性で、様々な人間が様々な立場で自分の当事者性を引き受ける物語です。今回は、侘助の問題を家族が引き受ける話だったので、陣内家がOZのセカイ的なトラブルという名の物語と対峙しましたが、この侘助が変われば、その人間を抱えるコミュニティ(決して家族に限らないと自分は考えています)がその人間を引き受ける物語になるでしょう。最後の夏希の花札シークエンスでの、世界中のコミュニティが夏希に命を預ける演出は、だからこそとても感動的です。が、実際問題、厄介者をコミュニティが引き受けるかといえば、それはまた別の問題で排除してしまうケースも多くあるでしょう。このような微細な演出によって、終盤のスペクタクル演出が感動を誘うことは、サマーウォーズに感動してしまった人たちなら同意してくれるのではないでしょうか。


■篠原夏希の話。そもそも見る前からポスターなどで、主人公はこの女の子ですと言っているようなものですし、大括りのジャンルで言えば、サマーウォーズは女の子の成長物語であることに異論はないかと思われます。そして、それはこの映画に常に通奏低音として流れている、"女系の包括性"についての話だと感じました。正直言うと、自分はラスト付近で、とてもむかついていました。それは、次世代の栄ばーちゃんとなった、夏希の子宮(陣内家)に取り込まれる気持ち悪さに耐えられなかった為です(これはもう、エヴァと比較しないわけにはいかない)。自分がヒロインであり、成長物語のヒーローでもある夏希の成長を、どうしても諸手を挙げて喜べないのは、夏希の承認で陣内家のマイミクになる部分です。ものすごく意地悪く言えば、あれはデート商法。最後のハッピーな展開は、デート商法で一緒にローンをガンバロっ(はぁと)と、契約書を出すようなもので。そんな手、振り払うに決まってんだろ。


気持ちの悪いたとえをすると、もし自分が夏希の手をとるとしたら、むこうの提示した契約書で手をうつことは考えられません。自分が大人になれない、無駄にプライドが高いだけの糞野郎なだけなのですが。オトコノコにだって意地があって、契約書に関する話し合いが出来ないのなら、夏希の手を握って抱き寄せたりは出来ません(これから恋愛として分かり合うんじゃない。と、お思いでしょうが、これでは広義のセカイ系に取り込まれたイニシアティヴを、始まる前から女系陣内家に握られた、腰抜けプロポーズだと思え。どうしても「おめーに承認されたくてセカイ救ったんじゃねーよ」といいたくなります)。


妙に鼻息が荒くなってしまいましたが、少なくともケンジの、サイトにログインする感覚で、なし崩し的に夏希に承認して頂くという、受動的な態度は、草食系男子的な弱い父性を暗示していて、自分の個人的な感情で言えば、一度で良いから夏希を拒絶してほしかった。例えば、数式を鼻血を出しながら解くケンジに、頑張ってという夏希に対して「黙ってて」と、一言入るだけで対等な関係性を演出できたでしょう。というか敢えてしなかったのでしょう。自分はここに、ウォーリーや、マトリックスや、電気羊を出展とするブレードランナーなど、幸福な夢を与え続けられながら、緩やかに殺されていくSF的管理社会を見ました。描かれ方は上記したSF映画に比べたら、とても肯定的ですが。そういった旧来的なSF感こそ、サマーウォーズ的強い母性からした、無意味なこだわり、ちゃちなプライドと断罪されてしまうでしょう。だからこそ、この面白すぎるサマーウォーズが怖い。ちょっとくらい気持ち悪くたっていいじゃんね。


穿った見方をすれば、恋愛というものを女性が男性を受け入れるという構図にしたことと、広義のセカイ系であることが、お互いに補完と作用になっていて、じーさんがいないのも、家(子宮)から誰も出ないのも(子供が外で遊ばない。大きなオトコノコ達は、家の中で戦いの相談を出来ない。衛星が落ちてくる最後まで家族は家から非難しない)、そのためだとも思えます。その為、男性は家での役割を取り上げられ、やれ戦だ、やれいざ鎌倉だ、と子供のように噴きあがるしかやることがなく。男性の役割も女性がやるのが家族の再生と見ることも可能なのです。オトコノコにそんなことまで背負わされちゃうんだったら、そりゃドラッグでもキメなきゃ体が持ちませんよ。そういった意味で、画面上に現れないじーさんが侘助に立ちふさがる話ではなく、栄ばーさんが(女性的包括性で、なし崩しに)侘助を受け入れる話であるわけです。母性の包括性が、オトコノコ的なものをオミットしているように見える箇所は、それだけではなく、様々な箇所に散見されます。それは何度もいろんな形で、「出て行くこと(出ない・出れない)」と「入る(入りたい)こと」として出てきます。


■池沢佳主馬の話。佳主馬萌え〜。OZでも陣内家でも万助を師匠って言ってて、空手をOZ経由でならってるって話すげー好き。


■(メモ)ヱヴァがエヴァのリメイクなように、サマーウォーズは、ウォーゲームのリメイクっていう考え方もあるのかぁ…ふむふむ。旧家であり栄ばーさんのコネが孫世代の公務員率を上げている。そのさらに下のパツキンが警官なのもそういうことか。あーこの旧家には長男がいないんだ。なんかふわっと腑に落ちたわ。
映画お葬式の主人公が、侘助なんだー。すごいなこれ。栄ばーさんの声やってた人が、緋牡丹博徒シリーズっていう任侠もんやってた人で、その代表作が、緋牡丹博徒・『花札』勝負てっ!細田、どこまでもな奴だぜっ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 / 110分

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 最初に、先に情報は入れないほうが絶対面白いから、他人の感想は読まないほうがいい。
僕にとっては端的に言って、長いMAD作品を見ている気分でした。MADにしては長い。なんで横から文字がでてこないんだろう?っていう気分。ほらアスカがあれだよ、みんな書き込まなくていいの?(携帯でスクリーンに書き込んで見れるバージョンをどっかでやればいい)二次創作って意味ではすげードメスティックなリメイク。そうそうリメイクなんだから、MADで当然、当たり前。 CG。凄く巨大なあれとかそれが、とても整然と並んで、規則的にだーーーっと動く。そこに関して街も使徒も同列で、街も生物。使徒も無機物。その分、匂いとか食事(→料理→畑)とか肉体的なガジェットが豊富。エヴァのフォルムも人っぽいし、戦闘シーンはグロい。意味性が薄く雰囲気を盛り上げる使い方をしたクラシックから、画面で行われている事の意味を歌詞で補完し、ある種のイメージを喚起させる童謡への変化もそういうことなんじゃないかと。そういや宇多田も生演奏バージョンっぽかった。 新キャラ。空から美少女が落ちてくる(ついでに過去の記憶の象徴のようなものを壊す)。ビーストモードはゲームの裏技みたい。というか、全体的にスーパーロボット大戦が浮かんだ。まーあれもMADだからな。昔の人たちが楽しむ為に勝手に作った地方ルールが通用しないキャラクタ。逃げたきゃ逃げればいいし、戦いたいなら行けばいい。そのくせ楽しめない人もいるんだねとかいう。調子のいい奴、みたいな台詞が新キャラから旧キャラへのメッセージみたいな。大人買い的メンタリティをもうちょい過剰にディスってもよかったんじゃないか。旧キャラの昔の台詞がそれに呼応する。ちなみに腕に付いた包帯を剥ぎ取り捨てるシーンがあったような。 アスカはそもそも、たまたま傍に居た加持さんに恋をしただけで、今回もたまたま傍に居た手近な相手のシンジに感情移入はしたものの、自分の為のキッカケのようなものでしかなく。恋愛は、かっこ悪いけどやってみようかな、っていう動機付けでしかない。公私共に足癖が悪い。「あんたバカァ?」を必要以上に多用する。それが古くて恥ずかしいなのか、色あせないなのかは分かんない。今回は逆に好きな人の首を絞めるアスカ。30代婚活女が、草食系男子の首を絞めるの図。その為か、オフではやたら一人ぼっち。 レイをお母さんみたいにしたのは、逃げた、と思った。エヴァに乗らない幸せもある。日常と決断主義。あれよあれよとグレンラガン。 公衆電話から手紙へ。双方向から片方、リアルタイムからタイムラグ。片や、結構重要な台詞は携帯や回線で話す。今ひとつケータイとまで言えないのは、メールを使わないから。 あのエヴァの頃は、トラウマ語りとかしてる程度にまだ余裕で。まだ自己責任論すらなかった。完全に今の方がガチでヤバイ。そういえば、今回は細部に他の人間の痕跡が見える。相対的な社会構造を匂わせる演出。アスカが言う、エコヒイキ、七光りは氷河期、非正規雇用世襲議員を思わせる。そういった個人が抗えない部分への不満は旧キャラらしい。シンジがエヴァに立てこもり暴れるのもまた、就労条件や不当解雇。旧保険庁への怒り。嘘だけど。 今はこれくらいしか思い出せないけど、とにかく物凄い情報量で、それを逐一処理しているだけで大変疲れる。もうぐったり。それならば、画面に身を投げて、情報を浴びるように摂取すればいいじゃないか。と見れば、エンターテイメントとして凄い。っていう感想になるんだと思います。

ハイキック・ガール! / 81分


ハイキック・ガール!

『マッハ!』を買い付け大ヒットさせ、2008年に『少林少女』というトンデモヒット映画と『黒帯 KURO-OBI』というB級佳作映画に関わった西冬彦による、初監督映画『ハイキック・ガール!』。要するに今、日本で格闘アクションを見るのなら覚えておいた方がいい人物による初の監督作。
この映画の核は、タイトルにもある通り、戦う女の子である筈なのだが、あれよあれよと主演と努める武田梨奈は存在感を失い、代わりに日本空手協会の総本部師範、中達也がどんどん前に出てきて、気がついたらハイキック・ガールではなく、空手おじさんを見ているという不思議な現象が起きる。確かに強さには説得力があるんだけど…やっぱりこの映画では武田梨奈が見たい。

と言うわけで、この映画は彼女の存在だけで、充分すぎるほど存在価値がある。きっと戦闘美少女が好き→戦隊ヒロインが好き→アイドル女優が好きなら、試しに見てみても損はない。誰もが認める文句なしの美少女かどうかは分からないけど、超かわいかった。というかめちゃくちゃ動けるので、相対的にこんなに動けるのに、これだけかわいいという風に見える。

この映画における空手とは『型』であり、それ自体が話の核にもなっている為、いわゆるカンフー映画に対した形で配置されている。なぜなら、動きを大きく見せるカンフーアクションとは目指している部分が全く異なっていて、動きが小さくカメラで追えない程素早く動き、止め絵で決める、という空手アクションという新ジャンルのお披露目であるからなのだが(そしてスローリプレイの多様は、この空手アクションの特性上の必然でもある)。その新ジャンルの確立に、彼女の型の美しさは今後も欠かせないだろう。

前半の彼女のアクションは、ブルース・リージャッキー・チェン等のオマージュが入っていることからも明らかな通り、カンフー寄りのアクションが混ざるのだが、それはお話上、彼女が師匠に反目しているからという必然性があり、彼女の精神的な成長と共に、カンフーなどの見た目重視のアクションから、地味ながらも実践的な空手のアクションになっていくという演出になっている。これは彼女が、カンフーの動きも空手の動きも、めちゃくちゃ綺麗にこなすからこそ出来ることで、逆に言えば彼女がいなければこの映画は出来なかったと言える。残念ながら、カンフー系の方が見ていてテンションが上がるのだけど、ココら辺は、同じリプレイでもメリハリをつけるなど、空手アクションの演出方法に進化が求められる所だろう。

奇しくも公開時期が重なった『チョコレート・ファイター』と比べられてしまうと残念なところだが。ローからハイまで抜群のスピードで美しく蹴り分ける、スカートからすらりと伸びた脚を見る為だけでも、この映画は見る価値がある。ジージャーの存在によって、影に隠れてしまっているかもしれないが、今後シーンを武田梨奈が引っ張っていく姿が見てみたい。

出番は少ないが、空手アイドルの小林由佳も出ていて、早速、空手女優VS空手アイドルの頂上決戦が見れるのも、戦闘美少女マニア的には見所の一つだと言える。また杉山彩のアクロバティックなアクションも面白い動きだった。格オタ的には、渡辺久江の腹筋と膝も嬉しい。このように敵は空手以外の様々な映画的なアクションを見せる。

しかし正直、武田梨奈を見る映画であって、全体の完成度が高いのかと言われれば難しい。西冬彦が、監督/プロデューサー/企画/原作/脚本/を一人で行っている事に端を発する諸問題によって、違和感を感じる編集や演出が目につく。どのシーン、どのカットも、監督にとって思い入れのあるシーンなのは分かるし、映画のテーマでもあるアクション空手を見せるということはあるとしても、繰り返しスローリプレイで見せるという演出意外にもアイデアがほしい。それで流れが分断してしまうために、アングルも単調で一本調子に見える。おそらく、愛ゆえに映画よりも空手がメインになっているように感じる。
この映画、あてぶりじゃなくて、フルコンタクトで入れてるんだけど(中には外れている所もそのまま映ってる)、そこまでしたのなら、やはり効果的に見たい。骨の音などは悪くないと思う。

ROOKIES-卒業- / 137分


ROOKIES -卒業-

森田まさのり原作漫画の大ヒットドラマの劇場版。ある事件により一度は夢を諦めヤンキー化した野球部員が、一人の教師に触発され夢の甲子園をめざすと言う、俗に言うヤンキー+スポ根なのだが。TVドラマの時点でその殆どの問題は解消されており、ヤンキーに見えなくも無い夢いっぱいのスポーツ少年達のスポ根モノになっている。かと思いきや。気合でただ闇雲に甲子園を目指す、野球もドラマも説明も無い、不思議な映画だった。
特にドラマパートの説明が全く無いのは致命的。ヤンキーっぽい彼らが誰なのか、一人ひとりの特徴は、何故甲子園を目指すのか、急に出てきたこいつは誰なのか、こいつは必要なのか。ドラマ版を見ていないと、何が起きてるのかよく分からない(因みに俺はTV版見てます)。更に、何時まで経ってもドラマが起きず、朝と夜の場面が入れ替わりに何度も写され、気がつくと予選大会。肝心の野球シーンも、ウッスラと戦術のようなものをやり掛けるのだが、その全てを勝俣で乗り切ると言う、カタルシスを台無しにする大味プラン。
野球的展開においても、個人を特徴的に描いてはくれないので、出てきてシャー(ストライク!)、出てきてシャー(ホームラン!)、と、今ひとつ違いが分からない(TV版を見ていると分かる程度に特徴はある)。
ヤンキーが持ち前の負けん気で夢を叶える、っていう部分をドラマティックに描きカタルシスにつなげる的なアレが死んでしまっているのは、ただただ虚しい。


何故ドラマも野球も盛り上がらないかというと、それは2時間も使う割にライバルを全く描かない為。ライバルによる盛り上がりは、スポーツではなく興行的な盛り上がりで、映画の盛り上がりと直結する非常に重要な要素。何故なら誰かの夢が叶うと言うことは、誰かの夢が破れると言うことであり。悪く聞こえるかも知れないが、そもそも興行とは人の「挫折」を見に行くものなのだから。だがこの映画では肝心の挫折がない。そしてライバルの代わりに人格を剥奪された、ゾンビや宇宙人のような相手高校ナインが描かれる。
ニコガクナインが声を荒らげ気合を入れ、絆を深め合っている間、相手チームは元よりこの球場にはニコガク野球部以外の人間が、まるでどこかにいってしまったかのように見える。これは、彼らの絆が強まれば強まるほど、他者や外部の存在感がどんどん希薄になっていくという演出で、他者が存在しないということは、駆け引きや勝負といった、野球的な面白さは勿論ないわけで、この映画は、意図的に他者を無視する方向に向いている事が分かる。


映画的な感動を置いてけぼりにしてまで、この排他的な演出法で表現しているものとはなんなのだろうか、というと。ヤンキーや野球部といった、ホモソーシャルな関係における排他的メンタリティの表現だと自分は考える。
一部の感想を見ていて一番良く見かけるのが、宗教的な気持ち悪さと言う感想。これも、集団における排他的なメンタリティであり、そういう演出をしているのだから、それを最も露悪的に表現した時、宗教団体の気持ち悪さと同じになるのは必然。ここまでの話を聞いていただければ、「夢にときめけ、明日にきらめけ」という言葉が、「最高ですかー」や「修行するぞ」と同じ効果を持っていることにも気付く。
この映画はスタッフの意図と関係なく、一度夢に敗れた人間が(私を)信じれば夢は叶うという言葉に縋らざる終えない心理、その結果、教祖を狂信的かつ盲目的に讃えるという構造をフィルムに焼き付けている。このように、何故人は宗教に縋ってしまうのか(TV)、そして宗教にはまった人間にとってセカイはどういう風に映るのか(映画)を克明に描いた映画なわけです。狙ってやったわけではないでしょうが、ファンの心理を掬い取りながら、元ヤン野球部のメンタリティ表現にまで消化されている。という構造は皮肉でも何でも無く面白い。
この部分においてROOKIESは評価出来る。数多くのヤンキーもの野球モノを始めとした、ホモソーシャルな関係性、また集団心理が宗教性を帯びる事から逃れられないことを、この映画から学ぶことが出来ます。

重力ピエロ / 119分


重力ピエロ

ある問題を抱えた家族の絆を、スタイリッシュな文体で軽やかに綴った伊坂幸太郎の同名ミステリーを実写映画化。連続放火事件の現場で見つける、グラフィティアートの謎を追う兄弟が、やがて家族の過去と向き合っていくさまを軽妙かつエモーショナルに描く。
主演の加瀬亮岡田将生は、伊坂ワールドを上手く演じていてとてもいい。また吉高由里子の整形したのに挙動不審な腐女子感は爆笑した。超うまい。まぁ彼女が説明の為だけに出てきているのは否めないが。そんな中でも渡部篤郎は飛び抜けて凄い。ビデオカメラを弄りながら、屈託のない表情である話をするシーンはちょっと…凄いとしか言えないな。なんつーかジョーカーだよね、ダークナイトの。しかしまーダークナイトにしては、バットマンの倫理が浅すぎる。正直、全然よく出来てるしツマラナイ映画じゃないんだけど、その肝になる部分がどうしても浅い。それは原作のダメさ。それを置いておけば、この映画は伊坂の気分をよく汲みとって作られてる。伊坂幸太郎の小説は、ミステリーにおける種や仕掛けよりも、重くなりがちなテーマを小粋な台詞で軽妙に描くことが魅力の多くをしめていて、この映画はそういった魅力を上手く演出している。大仰になりがちな伊坂の文体も上手いこと脚本に落とし込んでいて、それ程気にならない。
しかしどうしても、この作品のテーマに対して素直に頷く事が出来ない。このタイトルでもある重力っていう逃れられない世界のパーツを、嘘でも軽やかに飛ぶ事で、そういったルールとか偏見みたいな重力から逃れる事は出来るんじゃないか、っていうヒューマニズムがテーマなんだと思うんですけど。あの結論って、相手のルールとか倫理観の枠から一歩も出れて無いじゃないですか。それって、重力から逃れられてないと思うなぁ。結局お父さんのあの部分に落としこむことが目的で、あー言ったお父さんの態度や決断が、結果的にハルの元になってるんじゃないかな。と言う意味でも、家族は重力から逃れられてないと思う。