ROOKIES-卒業- / 137分


ROOKIES -卒業-

森田まさのり原作漫画の大ヒットドラマの劇場版。ある事件により一度は夢を諦めヤンキー化した野球部員が、一人の教師に触発され夢の甲子園をめざすと言う、俗に言うヤンキー+スポ根なのだが。TVドラマの時点でその殆どの問題は解消されており、ヤンキーに見えなくも無い夢いっぱいのスポーツ少年達のスポ根モノになっている。かと思いきや。気合でただ闇雲に甲子園を目指す、野球もドラマも説明も無い、不思議な映画だった。
特にドラマパートの説明が全く無いのは致命的。ヤンキーっぽい彼らが誰なのか、一人ひとりの特徴は、何故甲子園を目指すのか、急に出てきたこいつは誰なのか、こいつは必要なのか。ドラマ版を見ていないと、何が起きてるのかよく分からない(因みに俺はTV版見てます)。更に、何時まで経ってもドラマが起きず、朝と夜の場面が入れ替わりに何度も写され、気がつくと予選大会。肝心の野球シーンも、ウッスラと戦術のようなものをやり掛けるのだが、その全てを勝俣で乗り切ると言う、カタルシスを台無しにする大味プラン。
野球的展開においても、個人を特徴的に描いてはくれないので、出てきてシャー(ストライク!)、出てきてシャー(ホームラン!)、と、今ひとつ違いが分からない(TV版を見ていると分かる程度に特徴はある)。
ヤンキーが持ち前の負けん気で夢を叶える、っていう部分をドラマティックに描きカタルシスにつなげる的なアレが死んでしまっているのは、ただただ虚しい。


何故ドラマも野球も盛り上がらないかというと、それは2時間も使う割にライバルを全く描かない為。ライバルによる盛り上がりは、スポーツではなく興行的な盛り上がりで、映画の盛り上がりと直結する非常に重要な要素。何故なら誰かの夢が叶うと言うことは、誰かの夢が破れると言うことであり。悪く聞こえるかも知れないが、そもそも興行とは人の「挫折」を見に行くものなのだから。だがこの映画では肝心の挫折がない。そしてライバルの代わりに人格を剥奪された、ゾンビや宇宙人のような相手高校ナインが描かれる。
ニコガクナインが声を荒らげ気合を入れ、絆を深め合っている間、相手チームは元よりこの球場にはニコガク野球部以外の人間が、まるでどこかにいってしまったかのように見える。これは、彼らの絆が強まれば強まるほど、他者や外部の存在感がどんどん希薄になっていくという演出で、他者が存在しないということは、駆け引きや勝負といった、野球的な面白さは勿論ないわけで、この映画は、意図的に他者を無視する方向に向いている事が分かる。


映画的な感動を置いてけぼりにしてまで、この排他的な演出法で表現しているものとはなんなのだろうか、というと。ヤンキーや野球部といった、ホモソーシャルな関係における排他的メンタリティの表現だと自分は考える。
一部の感想を見ていて一番良く見かけるのが、宗教的な気持ち悪さと言う感想。これも、集団における排他的なメンタリティであり、そういう演出をしているのだから、それを最も露悪的に表現した時、宗教団体の気持ち悪さと同じになるのは必然。ここまでの話を聞いていただければ、「夢にときめけ、明日にきらめけ」という言葉が、「最高ですかー」や「修行するぞ」と同じ効果を持っていることにも気付く。
この映画はスタッフの意図と関係なく、一度夢に敗れた人間が(私を)信じれば夢は叶うという言葉に縋らざる終えない心理、その結果、教祖を狂信的かつ盲目的に讃えるという構造をフィルムに焼き付けている。このように、何故人は宗教に縋ってしまうのか(TV)、そして宗教にはまった人間にとってセカイはどういう風に映るのか(映画)を克明に描いた映画なわけです。狙ってやったわけではないでしょうが、ファンの心理を掬い取りながら、元ヤン野球部のメンタリティ表現にまで消化されている。という構造は皮肉でも何でも無く面白い。
この部分においてROOKIESは評価出来る。数多くのヤンキーもの野球モノを始めとした、ホモソーシャルな関係性、また集団心理が宗教性を帯びる事から逃れられないことを、この映画から学ぶことが出来ます。