天国は待ってくれる / 105分


天国は待ってくれる
学生時代よく遊んでた仲間が、就職と共にだんだん会えなくなって、サラリーマンとそれ以外の時間がずれていく怖さとか、それが突然の事故で、植物人間をハブにまたよく顔を合わせるようになるモラトリアム感(擬似的なユートピア)とか異常に俺の年代くらいにビンビン来る題材なんだけど、これはドラマでどうか。映画にしては一本道にすることで、食い足りなさや、アクロバティックな演出が抑えられて、今会いに行きますとかの類の、涙を食い物にする映画にジャンル分けされてしまうんじゃないかな。この映画がやってる頃、邦画界はまさに、人がころっと死んで残された人間の涙がどうこうする映画ばかりがTVで宣伝されて、映画ファンがそういった風潮を斜めに唾を吐いてたと思うんだ(奇跡とかワードが出る度に心の中でブーイングをしているんじゃないか)。個人的には、生きながら死ぬ人間が、象徴として吸引力を発揮し共同体を繋げてしまうという、上記したような映画を見に来る観客への皮肉にもなってると思うんだけど、そうとる客は稀でしょう。とくに何で生きてるの?何のために働くの?なんてのが、綺麗ごとに聞こえてしまうと、こういった話じゃ特にプロップスは得られない。一人くらい、アイツが死んでホッとしたんだろ?なんていう、奴がいても面白かったかもしれない。意外にも清木場俊介の演技がいい分、いのッチが物語の中核を占めると、どうにもその役者力というか考え方の説得力が、あまりに画面に栄えない。まーこの役は、いのッチの人の良さと優柔不断で流されていく部分が重要なのでしょうがないんだけど、もどかしい(そしてそれが演出レベルで上手く描けているとは言えないのが一番大きい問題)。


擬似的ユートピアを延命させるということと、生きながら死んでいる宙ぶらりんな状態によって成立している共同体が、人間としてはどんどん死んでいくって言う、ダブルミーニングになってるんだけど、そのことが、ドリカム状態の恋愛模様と偶像を抱えた共同体を分けることができないっていう形で、この映画では表出する。誰も心から嬉しくなれないプロポーズシーンでそれは明確に写される。居心地がいい共同体は、その共同体足りえる問題を先送りにすることで延命するが、その宙ぶらりんの状態に人間の心は耐えられないっていう話だと俺は感じた。植物人間になることで、偶像化した人間が、また人間として息を吹き返すことで、事故の前の時間とその間の三年の溝を生み、生き返った事を喜ばなきゃいけないという強迫観念によって、共同体を苦しめる(ここの時間が短いのが不満)。結局また死ぬんだけど、それは奇跡云々じゃなくて、お前今ホッとしたろ。っていう部分にスポットが当たるべきだったんじゃないかな。だからもう偶像ではない人間の心は誰がどう癒すのかっていう問題は、今度は完全に死ぬと言うことで、先送りにされるのがもったいない。
そのせいで出てくる違和感としてあるのは、寧ろまた死ぬ事で亡霊(比喩)としてこの共同体に一生付きまとうんじゃないかってこと。大人だから、引き受けなきゃいけないのかもしれないけど。あの町のみんなの幸せは、死んで完全態になった一人の偶像と、それに縛り付けられる二人の人生が担保(犠牲) になっていると思うと、擬似共同体を前借したこの人達が、いづれ訪れる年老いた人間の心の穴に耐えられるのか心配だ。それを象徴するように、妹は兄の意思を引き継ぎ、赤ん坊はその名前を引き継がざるおえない(これは俺の妄想。でも絶対そうだろ)。こりゃ自由な意思なんて考える余地の無い、随分業の深い町だと思う。
評判は悪いけど、原作・脚本の岡田惠和贔屓で、俺はそれなりに面白かった。まーべたべただけどね。


動ポ2であずまんが言ってたギャルゲに似た話あったよね?思い出せないけど。
分かった「君が望む永遠」だ。