殺人の追憶 / 130分


殺人の追憶

 実際に起きた連続殺人事件を、急速に進む都市化と、同時に起きる郊外化によって思い出の場所や共同体が瞬く間に知らない場所へと空洞化していく風景に溶けこませ、さっきまで隣に居た人間の正体がわからないという不安を描いた、オールタイムベスト級の傑作ミステリー。

 農村で起きた連続強姦殺人事件の捜査に当たるのは、地元の刑事とソウルから派遣されてきた刑事。顔を見れば犯人が解るという地元刑事と、書類は嘘をつかないと資料に没頭する派遣刑事を対照的に描いていく。序盤横暴で偏見に満ちた田舎刑事の捜査がいかにめちゃくちゃで根拠のない捜査であるかを朴訥としたコメディタッチで丁寧に描いていき、近代的でまともな捜査をしさえすればきっと解決する筈だという淡い期待をコチラに抱かせる。この時言う、韓国の刑事は足を使って捜査をするんだよ。という言葉は皮肉にも苦い後味への伏線となる。
例えば田舎刑事の相方である刑事は、輪をかけて乱暴な操作をする刑事であるかを証明するように、必殺技の蹴りを何度も何度も容疑者である知的障害者に食らわしていくのだが、彼は後半その容疑者に脚を釘で刺され腐り、そのアイデンティティでもある脚を切断する事になる。これは旧来の捜査の敗北である(しかしだからといって、変質者を捕まえた時の洞察力等、昔ながらの捜査方法の完全否定はされない)。
この知的障害者は旧農村的社会を象徴するように、序盤まるで生贄のように描かれるのだが、時代の移り変わりを前に、お祈りで雨が降るような奇跡は起こらないし、近代的捜査にとって重要な目撃者である事が後に明かされる(しかし同時に旧来的農村社会だったから彼は受け入れられていたとも言える)。また彼が轢かれるのは農村と都会を結び農村の急速な近代化を促進させる電車だ。近代化の波によって貴重な証拠はまたもや闇にまぎれてしまうのだ。

 旧来の操作方法では、この事件を解決するのはどうやら無理なのではないかという印象を決定的にするのは、女性警察官の(今で言う)プロファイリング的捜査によるもの。これは羊たちの沈黙の主役クラリスを思わせる(言い過ぎ)。ここから先、田舎刑事は翻身し二人の刑事は協力し(思想的にもお互いが互いに寄り添っていく、映画で言えば英雄的演出)事件に当たり、この映画内で最も犯人に見える容疑者を特定する。
 しかし今度は、今までの捜査をあざ笑うかのように、雨、赤い服、ラジオ等と関係ない条件下での殺人が、犯人の視点でたまたますれ違った誰かに焦点があっていく(その人物とは…)。ダメ押しとばかりに、全ての状況証拠がクロであるにも関わらず、近代的手法(DNA鑑定)での物証が足かせになり、容疑者はまたも指先からこぼれ落ちてしまう。このシークエンス、日本に住んでいる我々は足利事件を思い出すことだろう。
こうして近代的捜査も、主人公の(映画的)成長も、歴史に翻弄される小さな個人でしかありえない。という事実が突きつけられる。

 このように、近代化の波に翻弄される小さな個人と、捜査を阻んだものが浮かび上がっていくのだが(この他にも今、事件が起きると分かっていながら、機動隊がデモで全員出払ってる、ラジオのプロデューサーが異動した等の、積み重ねの一つ一つの背景に急速な近代化に社会が不安定になっている事が伺える)、それを最も端的に表しているのが、見慣れぬ開発現場に出くわすシーン。怪しい人物を現場で見つけ追いかける最中、さっきまで見知った村の風景が急に見慣れぬ現場に変わり、畏怖する田舎刑事の表情がそれを物語っている(そしてギリギリで彼の自尊心は保たれる)。
またラスト、数年後、刑事をやめた主人公が仕事の途中に事件現場を通りかかり、そこで出会った少女に自分と同じように現場を覗き込んでいた男がいたといわれる(もし現場百遍、昔ながらの足で稼ぐ捜査を今でも続けていたら、犯人かもしれない人間に出会っていたかも…という想像が一瞬よぎる)。そして「どんな顔だった?」という問いに「よくある顔よ。」と答える少女。もはや隣人の皺の数まで分かる農村の風景は無く、村内によく知らない男が居たとしても、それはなんの驚きでもないのだ。こうしてこの場所は、冒頭と変わらぬよく見知った事件現場であるのに、田舎によくある風景の一つでしかなく、自分の知っている場所と人しか無い村では無くなってしまった事が改めて提示される。事件が未解決にも拘らず(ドラマ的にもアンチカタルシスを示しているにも関わらず)、大きなカタルシスを感じるのは、この無力感の為ではないか。

 予断:近代化する社会を背景に、不透明な人間模様を描くという語り口は日本でも60年代から70年代にかけて量産されたと思うのだが、この映画の前後から2010年現在に到るまで、「韓国映画は凄いのに、それに比べ邦画は駄目だ」といった論調は根強く残っている。それ自体は「ウチのバカ亭主が」以上の意味は持たないし、どうだっていいことなのかも知れないけれど、歴史の転換期が劇的なのは何処の国も同じ、その道さっき通ったけど、という冷静さを忘れ、映画に携わる人間がボヤいてしまう貧しさが邦画を巡る貧しさそのものなんじゃないか。不幸だけどそれ故に優れた表現がある社会と、幸せだけどそれ故貧困な表現しかない社会を比べたらどちらが幸せか、自ずと答えは書いてあるんじゃないかな。
 これはポン・ジュノ監督自身のインタビューにおいて「韓国映画は隆盛だと言われるが、日本でATGが流行った六〇年代と同じだ。日本はもうそういう時代じゃないが、韓国もいずれそうなる。韓国に高度な表現が多いというよりも、時代の問題に過ぎない」という言葉を読んで感じた感想です。