ゼブラーマン/115分


ゼブラーマン
監督三池崇史による、哀川翔の主演100作目記念作品。脚本は宮藤官九郎。日本に於ける「ヒーロー願望」。即ち特撮を巡る、平成ライダー問題やオタク表現にゼブラーマンが白黒つける話。
過去の特撮作品は、ワザトではなく頑張った上で出来たチープさがある。しかし、このゼブラーマンはどう見てもワザトやっているチープであって*1お金と技術を駆使してチープに描いている。そんな低視聴率で打ち切りとなった特撮劇中劇「ゼブラーマン」はそのまま、過去ヒーローが成立していた時代のメタファーといえる*2。そしてそれを愛する主人公の立ち位置は、成り立たなくなったヒーロー像を象徴するように、とことん情けなくダメな人間に描かれる。しかしこの主人公は、平成ライダーでは「ヒーロー願望」を充足できないのだ。そしてひょんな事から本物のゼブラーマンになって、活躍していくのだが。ここに「なってねぇ」だの「愛が感じられない」だの、指摘させる事がそのまま問題提議になっているのではないだろうか。ここでは、何を失ったかを問うというよりも、失ったものを取り戻す気持ちが主題になっている。もし、そんな主題が無かったのなら、わざわざ劇中劇というメタファクターを用いる必要な無いし。そもそも、劇中のゼブラーマンを『あの、伝説の打ち切り特撮を劇場化』とかいって、そのまま見せればよかったのだ*3
あの頃の作品を現代版にブラッシュアップしたものが、単純に平成ライダーだと言えるだろうか。平成ライダーによって先鋭化されたものは、演出そして技術。しかし、過去の特撮からブラッシュアップされなかった特撮的なもの。それを現代で出来る技術を目いっぱい使って先鋭化させたものが、このゼブラーマンだといえる。
『善とは?悪とは?何故戦うのか?』といった平成ライダーのナイーブなココロも、日曜朝8:30にTVの前から振り返った時には、息子のいじめ、妻の不倫、娘の援助交際という現実が存在する。ベタ過ぎて笑ってしまうが、それは擦り切れたココロのテーマなのだ。そしてそれも、真剣にゼブラーマンをやっている内に解決してしまう。といった、平成ライダーでは絶対にやらない。やっちゃいけない事で、特撮を特撮足らしめている。これは、特撮が好きならば好きな程、マニアがマニアであるが故見えなくなっている問題だと言える。自分の分りやすい言い方をするならば『特撮マニアが特撮オタクになった』という事だ。最後の方、空を飛ぶ訓練をする主人公が、涙で滲んでよく見えなかった『大きなオトモダチ』*4は多かったのではないだろうかw。
特撮にも、コメディにも、サブカル映画にも、同時に配達されたこの作品はその評価ではなく、見方によって自分を省みさせられる、踏み絵的映画で、評論するのは非常に難しい。しかし、そういったドジな郵便配達員によって、島宇宙化した特撮村やサブカル村を社会とつなげようとしているように感じた。
この映画が放映されたのが2004年で、2005年の仮面ライダーである"響鬼"は、ゼブラーマンの出した答えにアンサーするという目的が、最初の構想ではあったのではないかと推測すると面白い。
だが2007年現在。平成ライダーはまだ、白黒ついていない。

*1:それは平成ライダーを見れば分る通り、やりたい事はある程度実現可能になっている

*2:というかまんまか

*3:特撮オタクはそっちの方がよかったのだろう

*4:実はこの『大きなオトモダチ』という言い回しが、彼等を象徴し。それをそのまま、『ダメだから良い。ダメだから分っている』という安直な逃げ道にしている。この言い回しはとっくに賞味期限切れてるよ。もう止めないか?