インソムニア / 119分


インソムニア

 何度見ても悪い意味で眠たい映画だとしか思えなかったんだけど、ノーカントリー殺人の追憶ダークナイト辺りを見て、ようやくぼんやりとだけどこの映画が描いているものが見えてきた。実は結構誠実にアメリカ映画の行き止まりと更新を描くガチな監督なんじゃね?と思うようになって来ました。
 それは上記した映画を見た方なら想像出来ると思いますが、天変地異や時代や事件などによって急激な変化と向き合い、今までまかり通っていた常識が通用しなくなるといった、俗に言う底が抜けた社会に対面する人間についての映画ですね。
 映画はアル・パチーノ演ずる刑事が、牧歌的で事件も然程無さそうな村で起きた殺人事件を操作しに来るところから始まります。その操作の途中誤って同僚を射殺してしまうが、心の何処かで彼を疎ましく思っていたアル・パチーノはこの誤射を隠蔽し、その罪悪感から眠れなくなってしまう。というのが冒頭。
アル・パチーノはザックリ言って都会の倫理で操作する近代的捜査官側。村からしたら外部の人間。その人間が徐々に村の倫理に侵され操作法も近代的な手法から、犯人を恫喝するだけの近代的洗練からかけ離れた捜査になっていく描写などからそれが伺える。
それから後半この村が段々寓話性を帯びてきて、もしかするとこの村の人々は皆過去に引きづられ行くべき方向を見失った人間が辿り着くお伽の村なんじゃないか、と考えさせられるシーンが後半入る。これは、そこで出てくるおばさんが十字架のペンダントをしていることから推測するに、キリスト教的癒しなのかな。
この事件の犯人は、謎解きではないのでひょいっと登場してしまうし、猟奇犯罪をした犯人にしては普通の人間に見える。少なくともサイコパスとか天才性や達観は微塵も伺えない。それに冒頭の方で猟奇犯罪は慣れっこで、そんなもの俺からしたら関係ねえ位のこと言っているのに、どんどん翻弄されていくのは、犯人のせいではなくアル・パチーノの勇み足だ。そしてどんどん犯人と刑事の境界線も曖昧になるし、彼等とそれ以外との相容れなさは決定的になって来る。この辺りダークナイトぽい。その一方で女性捜査官がアル・パチーノよりもどんどん近代的捜査で頭角を現す一方で、最後、お前は道を間違えるなと言われるのは、近代化によって人間の境界線が崩れるというモチーフなのだろうか。もしかすると、近代的捜査で事実に近づけば近づくほど犯人に近づくというモチーフはクリストファー・ノーランはずっと描いてるかも知れない。