ダンサー・イン・ザ・ダーク/140分


ダンサー・イン・ザ・ダーク
この映画は主演のビョークや監督トリアーのネームバリュー。また2000年カンヌ国際映画祭におけるパルムドール受賞など、映画の中身以外の要素が非常に話題に上がった作品でした。
女手ひとつで子供を育てる主人公のセルマは、決して綺麗ではなく、化粧もしない。そして俗に言う変わった女性から半歩踏み出して、ボーダー気味に演出されています。仕事は工場勤務の節約暮らし。たまに見るミュージカル映画が唯一の楽しみな女性。ミュージカルが大好きなセルマは、抑圧された怠慢・怒り・ストレスの逃避手段として日常をミュージカル化してしまいます。ミュージカル=逃避という演出自体は珍しいものではないですが、ここで描かれるミュージカルとは、アメリカ文化の象徴であることが重要です。

アメリカの正義を体現する警察官のビルは、この映画においてはしょぼい小悪党として表れます。妻を愛するがゆえに、セルマの金を盗んでしまう。そしてそれが発覚すると、言い訳がましく開き直り、みじめったらしくクヨクヨして見せます。
しかし、ビルにとってのお金は、愛する妻の欲する生活を成立させる為の費用。セルマにとってのお金も息子の手術費用であって私利私欲として描かれません。ビルは映像と演出によってみすぼらしい小悪党に描かれていますが、感情移入をすべき主人公と、実は似たタイプの欲望に駆動されています。ただひとつだけ違うとすれば、ビルが妻に与えたい金は、入れ替え可能で抽象的な豊かな生活なのに対し、セルマが息子に与えたい金は、交換不可能で具体的な視力ということ。それが、セルマもだんだんと目が見えなく為っていくことで、視力そのものではなく、息子に対する交換不能な愛であることを印象づけます。

だからセルマが血だらけになりながら否定するのは、間接的に息子の視力と交換されてしまった金、そして無自覚に交換してしまったビルへの怒り。そうして全てを交換可能にする貨幣経済そのものです。映画上では盗まれるお金=息子の視力と言った演出をしているため、そのお金を特別なものとして描きますが、貨幣経済に於いて特別な金などというものは存在しません。むしろ数字の交換が、更なる価値や利益を生み出す資本主義において、交換不可能な価値を付加させてしまうセルマは許されません。セルマの存在は、資本主義を否定する存在なのです。

また終盤、人生をめちゃくちゃにした相手との約束を守る為に、自分の無実を証明する秘密を隠し続けるといった、行き過ぎた敬虔さを見せるセルマに観客は戸惑うはずです。この行為は、観客のその場限りの同情や共感へ対する拒否であるからです。
盗まれた$2,056.10という数字は、セルマ自身を守る弁護費用として再び顔を出し、セルマの息子の幸せと、セルマ自身の幸せと、ビルの妻の幸せ。その全てが当価値である事を印象づけますが、これはつまり、セルマにとってその同情や共感を受け入れることは、同時に息子の視力が特別なものでは無い事を受け入れるという行為であるから、観客をも拒否するのです。
そういった、分かっていても分かりたくないという態度に、もやもやしながらも、倫理的には共感してしまう。といった二律背反に観客は引き裂かれてしまうからこそ、この映画は面白い。
この映画はアメリカ的な手法をもって、資本主義をハリウッドを、そして無自覚で無関係な観客を否定していると言えるでしょう。

資本主義を否定した母親は、自身の死をもって終わりを向かえますが。これは世界は負けるが私は負けなかったという、強いプライドであり、世界の不条理は変わらないという嫌味でもあります。
それでもセルマは最後の最後まで、アメリカの象徴であるミュージカルに逃避し、全編笑顔を見せない彼女も、ミュージカルに逃避している時にだけは完璧な笑顔を見せるのです。
その笑顔からは、全てを等価にするアメリカ的貨幣経済は(文字通り)死んでも受け入れたくないが、同じアメリカが産んだミュージカルは(嘘であるからこそ)死ぬほど素晴らしい。と言っているかのように感じました