うる星やつら オンリー・ユー

うる星やつら オンリーユー
たまたま、8 Bitゲームの番組と同時に見ていた為ファミコンプレイステーションを比較するさいの、ファミコンの方から浮き上がるモノと同調する。良い部分も悪い部分もどちらも。ただ、その良い部分が、ノスタルジーで気持ちよくなっているだけと、指摘できるものばかりなので、この場合、悪い部分の存在が逆説的に良い部分に変容してみる事が出来る。それは概ね技術的なことなので、上記した部分の、戒め的なこと位にしかならない。勿論、うる星はファミコンなんだけど重要な事は、その番組で言われていた「ゼビウス」「ドルアーガ」の制作に携わった遠藤雅伸氏のエピソード。うちの息子に「ゼビウス」「ドルアーガ」をやらせたけどつまらないといわれた。という話なのかもしれない。「ゼビウス」「ドルアーガ」が普遍的だと信じ疑う事すらしなかった自分が恥ずかしい。しかし、ならば今のゲームを作ればいいのか?普遍性を信じ普遍性を求めたゲームを作ればいいのか?例えば、普遍性とは、普遍的想像力から生まれるものではないのかもしれない。二十代の<萌え>最前線にとって『うる星やつら』は何を見せるのだろうか。


特に戦争感、恋愛感の変容が一番目立って見える。この頃おたくは、可視化すらされていなかったことがうる星やつら内、男性メンタリティに垣間見える。メガネがおたく的位置だと思ったが、メガネすら、非モテの恋愛感とは全く異なっている。より直情的で、露悪的な部分をコミカルに道化る事で、場をやり過ごしていた…と考えるのは、非モテに毒されすぎか。例えば、昔のエロゲー(パソゲー)は、繊細で内気な主人公だったかといわれればそうではなく、現在では俗にナンパゲーと言われている。そしてそれをプレイする人間は諸星あたる、はたまたメガネだったのだろうか。違うだろう。そこの部分の齟齬というのは、現在失われて見える。大塚英志東浩紀について語った、東浩紀の文章は、その文章を読む対象とに距離が無く齟齬が生じない。と評していた事と重ねて考えたい。


また戦争について、目の前で行われるスペースウォーにメガネ、パーマ、カクガリ、チビがはしゃいでいると、しのぶに「戦争になったのがそんなに嬉しいの?」と揶揄されるシーンがあり、メガネは「これで俺たちは、戦争を知ってる子供達だもんな」とその喜びを明確に発する。当時であっても違和感がありそうなシーンだが、一部の人間にとっては、絶対に越えられない壁としての『戦争体験を語る大人』というものへ対する反発・嫌悪を公に出来る理由が欲しかったのだろうか。まあ、メガネは押井守の分身という部分もあるので宮崎駿富野由悠季への苛立ちという。押井個人の主観に基いているのかもしれなく。笑えばよかったのかな。


2000年代を生きる自分には「甘いケーキ菓子のような映画」ではなく、作品にとって普遍性が善で、時代と寝ることは悪。なんて図式は、全然成立しなく。時代と寝るからこそ、時間が経過した時に雄弁に作品は語ってくれている。


この作品への批判により、この後から押井は、作家性を前面に押し出してくるが今の僕にとっては、その批判部分がとても重要に思えているのだから、物語をエンターテインする観客論と作家性は、一面からでは、切り取る事なんて出来ない。最近松本人志が、初監督作品大日本人のHP上で『あの頃は、TVで面白い事が出来たからアートをするしかなかったけど、今はTVの規制で面白い事が出来ないから屁理屈こねないで、面白い事をしないと』というような事を言っていて、エンターテインする観客論と作家性が融和するタイミングというのは、結構同時代性のある、今のテーマなのかなと思いました。